私には夢がある
こんにちは東京主信仰教会のなおこです
街路樹が楽しい季節です
雪柳がかわいらしく咲き、躑躅の蕾も目立ち始めました
偉人の名言
私は偉人の名言や格言と呼ばれるものが集められた本やサイトを読むのが好きです。というのも成功した人や何かを成し遂げた人と言うのは何かしらの信念や考えを持っている人たちだからです。その行いのエッセンスが凝縮されたような格言(編集されていたり、外国語だと意訳されていることもあるけれど)は普通の生活をしている私が、毎日同じ生活が続いたときに、ふと考えるきっかけだったり、ふと気づきを与えさせてくれて自分の目の前にある壁を突破できるそのような感覚を与えてくれます。
以前からお話ししている韓国人の男性アイドルグループの『Not Today』と言う曲の中でもこんな名言が取り上げられています。
날아갈 수 없음 뛰어(飛べないなら走れ)
『Not Today』防弾少年団
Today we will survive(生き残ってみせる)
뛰어갈 수 없음 걸어(走れないなら歩け)
Today we will survive(生き残ってみせる)
걸어갈 수 없음 기어(歩けないなら這っていけ)
기어서라도 gear up(這いつくばってでも gear up)
겨눠 총! 조준! 발사!(狙え 銃 照準 発砲!)
とにかく進んでいこう!っていうね。
ちなみにこの歌詞で使われている『名言』と、今回のブログのタイトルで使用したスピーチのタイトルは同じ人によるものです。
「私には夢がある キング牧師」で検索するとスピーチの内容を閲覧することができますのでぜひ見てみてください。人種差別のない世界に対する熱い思いに胸が打たれる、そんな感じを受けるのではないかなと思います。
人間だもの
最近芸能人にしろ政治家にしろ、テレビなどメディアに出てくるような人が何か問題を起こしたときに、めっちゃめちゃ叩く人、多くありませんか?全然自分には関係ないことだとしても、めちゃくちゃに叩いているようにみえませんか??あれ見ると心がすさむ感じがします。怖くなります。もちろん悪いことを直したりすることは必要だと思うんですけれども、それでも許すということって必要だし、許せなかったならスルーしておけばいいじゃん!と思ったりします。っていうか、自分だって間違うことはあるし、罪を犯してしまうことや人を傷つけてしまうこと、あるよ。人の間違いを叩いたり批判しまくる人というのは、自分が間違えたときにはどうするんでしょうか。また、罪を犯した人だけでなく、その人の親や子供など、何も罪を犯していない人までの顔出しなど、ネットに個人情報を晒して批判したりするのは異常だと思います。そんな社会って生きづらくないですか。
日本人にしろ外国人にしろ、最近の人であれ昔の人であれ、人間ですから、肉体を持っている人間ですから、どの方面から見ても完璧デス!なはずではないし、欠点というものは誰でも持っているはずです。どんな偉人だろうと、なにか世のため人のために功績を立てた人だとしても、人間だもの、何かしら欠点があります。人には褒められないような性格・性質があったり、癖があったり、あまりよろしくないとされることを常日頃行っていたり習慣付いている人だったりそういう人がいます。けれどもだからといって、その人自体を、その人が行ったいいこと自体をなかったものにしてしまうかのように批判するのってちょっと違うと思うんですよね。
盲信はよろしくない
1990年代の日本を取り巻く『宗教』というものについて。いろんな事件や集団のことを考えると、今の日本人が『シューキョー』に対してやけに身構えてしまうこと、また思い込みが激しくなってしまうことはしょうがないと思うところはあります。
過程の中で正しいことをして神様の御心通りに行くとしても、それによる困難もあるし、様々な問題が生じるかもしれません。ですが、みなさん、救い歴史を始め、旧約と新約の土台の上に成約歴史を立て、御心を置いて必ず行われる神様を信じ、どんなことがあってなにがあっても、私たちがすべきことをやりましょう。
20220320中高生に向けた主日礼拝より
みなさんがすべきことは基本的に伝えていますが、毎週の礼拝を通しても続けてみなさんを教え、教育し、みなさんと対話していきます。「無条件信じなさい。無条件信じなさい」は駄目です。これから、神様の歴史を誇らしく引き継いでいきますから、やっていることを見て、信じて、どんなことがあっても、どんな困難な状態が生じても、みなさんが神様を愛していく人としてすべきことをしていくのです。分かりますか?
盲信はよくありません。神様くらいのレベルになったら無条件信じてもいいのかもしれませんが、人間に対してはそれではいけません。「誰々がこう言っているからこれが正解!」とか、「誰々が言うとおりにすればいい」といって誰かを盲信するのは、やめましょう。そのほうが考えなくて済むから楽なんですけれども、ね。自分の信頼している人がすべてにおいて万能ではないし、信頼している人が間違うこともあれば、自分とは合わない部分もあります。勝手に盲信してやって失敗したくせに、「誰々さんの言うとおりにやったのに、ひどい!!」なんて他人のせいにして被害者ぶってしまう危険性もあります。誰かに信頼を寄せることと盲信することは違います。最後は自分の頭で考える、これが大切です。
自分も完璧ではありません。自分のために言ってくれることだとしても、自分がそのメッセージを正しく受け止められなくて失敗することもあるし、言われてもいないことを聞き取って、書かれてもいない「行間」を思い込みで読んで勘違いしていることがまったくないと言い切れますか?
もちろん「いいからまずは信じてみる」という姿勢も必要です。でも、雰囲気で流されることなく、自分が確認して、経験してみて、考えて、その結果信じたいという決断を自分がしてついていってこそ、神様も喜んでくださるのではないでしょうか。
「今」の祝福
私がこの御言葉を聞き始めた学生の頃は、御言葉ではそういわれているけれど、ホント!?とか疑いたくなることもありました。でも約20年がたち、私の周りの教会メンバーも成長し、御言葉の通りにおこなうことで神様からたくさんの祝福を受けるすがた、神様を愛することでどんどん輝いていくすがたをみせてくれるようなメンバーが、出来事が、たくさんあります。
だから言います。
この御言葉を実践していくならば、途中でどんな苦労があろうとも、神様がたくさんの祝福を与えてくださることを。
個人的にはこれからどんな奇跡を神様が起こしてくださるのか、どんな祝福を私たちの前に見せてくださるのか、とても楽しみです。
もちろん、大変なことはいつもありますけれども、ね。
私には夢がある
手に入りそうになったことがあったのに、ダメになってしまっただけでなく、信頼していた人から責められたり、「こうして欲しい」と言われたとおりにしたつもりなのに、無責任に放り出されてしまったりして「おーーーーい!勘弁してくれーーぃ」と思ったことはありますけれども、落ち込みそうなときにはいつも神様が御言葉をとおして力をくださいます。
あなたのいる環境を見ると、落胆してもおかしくない。しかし希望が地上から来るのか。神様が天からくださるのではないか。砂漠も雨が降り続けるならば草原になる。絶望の中で希望を持って生きる人は偉大な精神を持っている人だ。
20080625水曜日の御言葉
そして私が落胆しているときも、ただ「ガンバレガンバレ」とおっしゃるだけでなく、私の想像を超えるような素敵なプレゼントを目に見える形でも、目に見えない形でもたくさんくださいました。そのおかげで崩れきることなくここまで来ております。
本人が希望したことを他人にあげることはほとんどなさらない。条件を立てて遅くなっても、その人に与えることを望み、その人にあげてお喜びになる。
20080625水曜日の御言葉
ちょっと昔の御言葉をよむことがあったのでそこからいくつか引用しました。
大変なことはあるけれど、未来に希望をもって生きていきたい。たとえ這いつくばっていくとしても。