祈れないときには~隗より始めよ
こんにちは
東京主信仰教会のなおこです
昨日見たら、街路樹のツツジというツツジが枝が見えるほどに刈られてて、なんか、落とせない汚れを、一気に、一掃できたような、そんな、気持ちいい感じになりました。私はただ自転車で通り過ぎているだけですけど。
先づ隗より始めよ
高校のときに学んだ「漢文」、けっこうおもしろいストーリーが多くて好きでした。塾の古文の先生が本当に魅力的に古文や漢文を教えてくれる先生だったんですよ。怖かったけど。「先づ隗より始めよ」もその中のひとつでした。
戦国時代の燕という国に、郭隗(かくかい)という人がいました。中国戦国時代に燕の昭王が郭隗に国に賢者のを集めるにはどうしたらいいかを相談します。すると郭隗は「優れた人材を集めたいと思うなら、まず私を優遇してください。私のような凡庸な人間でも優遇されるなら、私より優秀な者たちが『俺ならもっと…』と思って集まってくるでしょう」と昭王に進言します。それを聞いた昭王は、郭隗のために新しく邸宅を築き、郭隗を師として仰ぎました。この話を聞いた賢者たちは、争って燕を訪れるようになりました。
燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、卑辞厚幣、以招賢者。問郭隗曰、「斉因孤之国乱、而襲破燕。孤極知燕小不足以報。誠得賢士与共国以雪先王之恥、孤之願也。先生視可者。得身事之。」
『戦国策』
隗曰、「古之君有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金而返。君怒。涓人曰、『死馬且買之。況生者乎馬今至矣。』不期年、千里馬至者三。今王必欲致士、先従隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。
시작이 반이다(シジャギパニダ)
また、たびたび御言葉にも出てきたことのあるこちらの韓国の諺も紹介したいと思います。
시작이 반이다(シジャギパニダ)
直訳:始まりが半分だ
つまり、始めるということはすごくパワーが必要なことであって、始めることができたならば、もう半分が終わったのと同じだ、と言う意味だそうです。ゼロイチは本当に力を使いますよね。だから、何かを始めるっていうことが本当に大事なんだなということをこの諺をとおしても学ぶことができます。
まず一言でいいから
何が言いたいのかというと、長く信仰生活を送る中で、いいときもあれば悪いときもあるわけで、熱く切実に愛する神様に祈れるときもあれば、愛する神様には違いないのに、こう、うまく、祈れないというかなんというか…というときがあります。そんな時にはどうすればいいのか、今朝答えをくださった感じがしたのでブログを書きたくなったわけです。
3.祈ろうと目をつぶって「どうしようか?」と思った。
20230607明け方の箴言
黙っていればいるほど雑念ばかりが来る。
「始めなさい!一言から話しなさい!」
話せば、その憎き雑念は消えて滅んでしまう。
自分が大変な状況なのは誰よりも神様がご覧になってわかっています。そんな中でも神様に話しかけたいと思ってもがいている姿を、神様がどんな気持ちでご覧になるでしょう。
一言でいいから祈って!「神様、実は祈れないんです」でいいから神様に話しかけてみて。
うまくいけばそのあとスルスルと神様に話したいことが祈りとして出てくるかもしれないし、そうでなくても、その様子を神様はごらんになっているから。
神様とあなたは愛する間柄なんだから、愛する二人の間に愛の言葉がないなら、その関係が悲しいことになってしまうから。