「なんでだろう…」って思ってしまったとき

こんにちは
東京主信仰教会のなおこです
最近初めてメルカリで出品したものが売れました。素直に嬉しい。

うまくいかないことばかりのときも、うん、あるよ

なんでなんだろう…
うまくいかないときに、悶々と考えてしまうときってありますよね。人間ですから。生きていく中で大なり小なり、そう考えることはあります。わかっているのにできないこととか、考えてもどうしようもないことだったり、自分ではどうしようもないことのように思えることだったり、いろいろと。
でも悶々としてしまう考えに囲まれていて喜ぶのは悪魔だけで、神様も自分も悶々としてしまうことを望んでいるわけじゃないんだから、切り替えて、どんな大変な状況のなかでも神様を愛することに没頭していくこと、これに限るんですよね。
落ち込みなさいとか、悶々としなさいなんて御言葉は出たことはありません。ただ私たちへ伝えられる神様の御言葉を貴重に思って聞くときに、神様は喜んでくださいます。

「この異常なできごとは、いつになって終るでしょうか」と。かの亜麻布を着て、川の水の上にいた人が、天に向かって、その右の手と左の手をあげ、永遠に生ける者をさして誓い、それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろうと言うのを、わたしは聞いた。

ダニエル書12章6節~7節

うまくいかないことも、必ず終わりが来るから。
止まない雨はないからね。

NO!疎外感

他教会メンバーがうちの教会に遊びに来てくれた時に、こんな話をしていました。

「この神様にであうようになって、この御言葉を聞くようになって27年くらいたちました。牧師先生をとおしてたくさん神様について教えてもらって27年。歳を重ねるごとに『本当にそうなんだな』と、否定しようが無いことを感じるばかりです。疑いようもなくて、御言葉でこうおっしゃるならばこうなるんだということを見続けてきました。そしてこれからもそれが続いていくんだと確信しています。
御言葉を27年聞き続けて思うのは、ときどき難しいことも起こるし、『なんでなんだろう』と思うこともあります。でも結局それは現在進行形の進行中の歴史なので、単なる通過点であって、それが結論ではないし、その時点でのいろんな人の話を聞いて、自分でもいろんな考えをして、それで判断できるわけではないと、嫌というほど感じてきました。
神様の御心、神様が考えていらっしゃることというのは私たちの認識のはるか上にあって、到底人間に理解できないと後になってわかります。それで自分にとって最高なことは、結局、御言葉を行うということなんだなと感じました。
心が痛いことは多いですし、聞きたくないこともありますけど、結局それは、あとになってみるならば、何でもないことというか、それを持って判断するべきではないと確認するときがくるのではないと思います。聞くべき御言葉がたくさんあるので、それを聞くことに時間を使うので忙しい。聖書にも『すべては神様がなさるから私たちは先走って判断するな』という聖句があるけれども、そのとおりだなと思います。ただ御言葉をとおして神様にあって、最後まで行くときに大きな祝福を受ける自分たちでありたいなと思いますし、私自身もなにがなんでも最後までやりぬいてやる!と思います。」

常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。

ダニエル書12章11節~13節

2023年

人生の先輩でもあり、御言葉を聞き続けてきた先輩でもある人から、そういわれると、説得力がありますよね。イエス様が生きた時代から2000年がたった今この時代じゃないですか。
2023年、一緒に、その神様が見せようとしているものを見て、神様が聞かせたいものを聞いて、霊肉の祝福をうけられたらなと思います。

なんでだろうと思うことはある。
気持ちが晴れないときもときにはある。

その先輩の話を聞いた後に、朱那牧師がとても嬉しい話を発表してくださいました。
幸せな気分になる日曜日。これからも過ごしていきたいです。

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