苦手なタイプの人との接し方! 苦手な人と関わるしかなかったらどうしたらいい?
みなさま、元気にお過ごしでしょうか?
ゆいチャンねるです。
外出自粛が続き、異例の新年度スタートとなりました。
春には新しい学校、新しいクラス、新しい職場、新しい環境…笑顔で集まり、ワクワクする季節…のはずでしたが、今年はそうはいきませんでした。
私自身も早々にテレワークになり、日々家で仕事をする毎日です。
家にいる時間が圧倒的に増え、どたばたとさまざまな場所に出かけていた生活からこのような生活になってみて改めて考えたのは、自分の性格についてでした。
1人でいる時間が多いからか、ふと、昔の出来事がよみがえることがあります。
断片的にですが、最近の出来事に関わらず、あいまいに覚えているくらい昔のことまで、思い出すことがあります。
皆さんもあるでしょうか?
断片的に思い出すことは、楽しいこと、懐かしい人が思い出されますが、中には昔はよく思っていなかった人のことを思い出すことがあります。
苦手な人。苦手だった人。嫌いだった人。
なぜかどうしても好きになれない人、その人に言われて嫌だったこと、傷ついたこと…
思い出してみると、結構ありました。自分も悪かったなあと思うことも、結構ありました。
苦手な人は、どうしたらよいのか?
どうやって解決したらよいのか?
今回は、この期間ですがあえてこのことについて、苦手な人とどのように接したらよいのかについて考えたいと思います。
教会で学んだ人間関係のノウハウ
教会で学んだ人間関係は、一言、「愛しなさい」でした。
初めて教会に来たときは、衝撃でした。私がどこの誰という前から、温かく迎えてくれる場所があることがわかりました。
「なぜなのか?」という気持ちから聖書のこと、神様のこと、様々に学ぶようになり、「愛しなさい」という言葉にたどり着きました。
「愛しなさい」ということのなかでも究極的に難しいのが「敵を愛しなさい」ということですが、牧師先生が話される「敵を愛しなさい」という言葉には、敵を愛せない状況で愛した体験をした人にしか話すことのできない深い意味が込められます。
牧師先生の話を聞いてからは、自分にとってどうしても好きになれない人、すなわち敵を愛することについて考えてみるようになりました。
「敵を愛しなさい」という言葉は、私の辞書には無かった
とはいえ、私自身もともとは敵を愛することとは程遠い性格を持ち、程遠いポリシーに従って生きていました。
私には年の近い弟がいるのですが、幼少期はよくケンカをしていました。ケンカをして弟が泣きだす顔を今でも覚えているので、相当泣かせていたと思います。
けれども、譲れませんでした。何を譲れなかったかというと、「自分が泣かされて終われない」ということです。
簡単に言うと、「やられたらやり返す」というのが私のポリシーでした。
自分が泣かされて終わったら悔しくてたまらない。
そのため、そういうものでしょ、とすら考えていました。
弟に対しては文字通りやられたらやり返していましたが、友達にはそうはいきませんでした。
私は小学校1年生の時に初めて作った図工の作品で賞をもらったのですが、その時から「賞」というものにものすごく固執するようになりました。
図工、書道、スポーツ、音楽、成績…すべてにおいて1番を目指して頑張りました。
その面で隣の人をライバルとして捉えるようになりました。
ライバルは漢字で「好敵手」と書かれますが、良きライバルというよりかは、それこそ敵に近い感覚でした。
友達が自分とものすごく似ている作品をつくったときは、アイデアを「盗まれた」と思いました。
それを誰かに言ったりはしなかったですが、「一番になるための自分の作品」が真似される、盗まれると考えると、怒りに近い悔しさがわいてきました。
「真似されるくらいだったらいっそのこと完成するまで隠して作りたい」とまで思ったこともありました。
このように友達には表に表すことがなかったとしても、いつもどこかで一方的に戦いを挑みました。
そのような小中学校時代を過ごし、高校生の時、倫理の授業でキリスト教について初めて学びました。
教科書を読んでみると、
「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」
という聖句が書かれていました。
自分には無理だ、と思いました。
やられたらやり返すということと正反対だったからです。
やられてもやり返さないどころか、ほかの頬をも向けることを理解することは当時の私には、あまりにも難しいことでした。
こうして高校生の時には理解することができませんでしたが、大学生になり、様々な問題に直面しました。
端的には、「賞」に固執して、みんなをライバル視して一人で戦うことに限界を感じました。
もう限界だ、と思ったときに、教会で聖書を学ぶ機会を得ることができました。
愛したら、愛される
聖書について、神様について、自分の人生の生きる目的について学び、自分の心について考える中で思ったのは、「私の心が戦争の原因だ」ということでした。
やられたらやり返すから嫌うことが終わらない。きりがない。
気に入らないから嫌い、真似するから嫌いと思っているうちに、相手がどうであるかに関わらず、それ以前に自分の心が争いの原因になり、それが大きくとらえたら戦争の火種になることに気が付きました。
そのことに気が付いてからは、教会で学びながら、自分の性格が少しずつ変化することを感じるようになりました。そのたびに、嬉しく、性格はつくり甲斐があると思いました。
たまには、どうしても難しい状況も降りかかります。
誰がどう見ても無理だと思うこともあります。
しかし、そういう時には、牧師先生が戦争の現場で敵を愛したエピソードを思い出します。
戦争の現場で敵を愛せたら、どこでも愛せるのではないか、
自分の心が相手と争う心を持たなければ争いが起こらない、ということに気が付いてからは、過去無理だと思っていたことにも対処できるようになりました。
最近は、「この人には…伝わらない…」と思う人にこそ率先して愛する心で接したときに、知りえなかった相手の心を知ることもできました。
愛したら、愛される。
苦手、嫌いだと思う相手であっても、小さなことからでも、争う心を置いて愛することが結果として「良かった」と思える解決策だと思います。
私も、人生一生の宿題にして、性格を磨いて、作っていきたいと思います。
今回は、これにて。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
また次回、ゆいチャンねるでお会いしましょう!