自分の役割があるということ、自分の場所があるということ
こんにちは
東京主信仰教会のなおこです
うだるような暑さです。これは溶けるレベルです。溶けます。
自分の場所があるということ
YouTubeショート見ていて、たまに感動するショートが出てくることが多いです。あ、無駄時間すごしてんじゃないよ(¯ヘ¯+)という反応は…お許しください。
学校だけじゃなくて、職場でも、仲のいい人同士でも、「いじめ」ってありますよね。
私は音楽に詳しいわけではなかったんだけれども、テレビのCMとかでもよく聞く曲だから、ノリのいい曲として覚えていた。歌詞も面白い単語が並んでいて、面白い表現だったのを覚えている。
そのバンドのボーカルの人が「学校に居場所がない子に言ってあげられることはありますか?」と質問されたときに、こう答えたそうです。
「居場所あるよ。席あるじゃん。そこに黙って座ってりゃいいんだよ。友達なんていなくて当たり前なんだから。友達じゃね~よ、クラスメイトなんて。たまたま同じ年に生まれた近所の奴が同じ部屋に集められただけじゃん。」
ブルーハーツ 甲本ヒロト氏
「趣味も違うのに友達になれるわけないじゃん。山手線にのってて、「はい、この車両全員、仲良く友達ね」って言われても、「いや、偶然今一緒にのってるだけなんですけど」って。友達じゃね~よ。」
「ただ、友達じゃないけどさ、喧嘩せず自分が降りる駅まで平和に乗ってられなきゃダメじゃない?その訓練じゃないか、学校は。友達でもないし仲良しでもない、好きでもない連中と喧嘩しないで平穏に暮らす練習をするのが学校じゃないか。だからいいよ。友達なんかいなくても。」
想像していた答えとまったく違くて、なんか、自分の予想の上の回答でビックリしました。たしかに、席あるじゃん笑。居場所がないって、辛く感じるけれども、居場所、あるじゃん笑。
小学生は家と学校しか世界がないと思ってしまうのかもしれないけれども、全知全能の神様が創造されたこの世界、私たちが想像できるレベルの世界ではありません。すべての場所が自分に合うわけじゃないけれども、自分に合わない場所だけじゃないもんね。いろんな場所でうまくできるのも素敵だけれども、ピンポイントでどストライクな場所を見つけられるのも素敵じゃない?
教会を自分の場所の一つにするっている選択肢は、いかがですか??
受ける幸せもあるけれど、与える幸せはもっとある
うちの教会はいろんな人がいるんですけれども、日曜日にいつもお休みが取れるわけじゃない人もいるわけです。20年前くらいだと、日曜日に教会のみんなに会えないときが続いて、勝手に疎外感に包まれてしまって、寂しくなってしまってっていう人がいたんだけれども、うちの教会の日曜日にいつもお休みが取れるわけじゃない人って、「カッコいい人」が多いんですよ。
ここで細かくは言いませんが。
先日、日曜日にいつもお休みが取れるわけじゃない人の一人が、日曜日の礼拝のある一部を担おうとしているところに遭遇してしまったんです。その人は忙しくて、体力的には休みの日には「休みたいー!」って思ってもおかしくない感じなはずなのに!?
個人的には、毎日仕事で忙しいんだから、日曜日に教会に来られたときくらい、神様からの御言葉でいっぱいに愛を感じて、神様からの恵みをかみしめればいいじゃないと思っていたんだけれども、その人が「愛する神様のためにささげたいって思って」と楽器隊を取りまとめている人に話しかけている姿を見て、受けるよりも与えることのほうが喜びが強いのが人間だもんね、って思ったのでした。
自分の役割があるということ
東京主信仰教会の人たちは、多彩な人たちがいて、みなさん多才です。みんなが自分の「できること」をとおして神様に栄光を帰しています。ときに「自分にはできることがない」病に陥っている人はいるかもしれませんが、そんなときに、「これ、やってみないー??」と負担なく声をかけてくださる牧会者がいます。
私も東京主信仰教会にくるまでに一度もやったことがない「カメラ担当」を、「なおこー、やってみないー?」という一声があって、させてもらうようになりました。言われたときには、え?私やっていいの?と思いました。やってみると、楽しいです。ただ、「写りたがりなおこ」でもあるので、たまに写りたくはなりますが。
自分の場所があるということ、自分に役割があるということ、これって本当に大切なことだと思います。
さあ、あの人のいる日曜日にはあの楽器の音色が重なる日になるんだと思ったら、また日曜日の楽しみが増えてきちゃった!