教会に通っているからといってすべてうまくいくわけではないけれど、やっぱり教会に通って神様を愛する喜びは手放せない話

こんにちは。
東京主信仰教会のなおこです。 まだまだ外出時にはコートは必須ですが、花屋を見るとスイートピーなどの春の花が登場していて、ついつい香りを嗅ぎに近寄ってしまいます。売り物だから触れないように気をつけながら。


教会だから、いつも天国なのでは、ない

教会は御言葉を聞きに行きます。御言葉、つまり神様の言葉、つまり私に必要な御言葉であって、それは私を作るために有効な言葉を聞きに行きます。
だから、その御言葉どおりに行えば、「神じゃん」というくらいのスペシャルなおこが出来上がるはずなんですけれども、そうなれていないのは、自分が怠惰になってしまう分、御言葉どおり行えていない部分があるからなんですよね、残念ながら。
私がそうであるように、教会に通うほかの人たちも完璧を目指してもがいているんです。
神様の御言葉は愛にあふれていますが、教会に通うメンバーのふとした言葉に傷ついたりしてしまったことも過去になかったわけではありません。
ある日曜日の説教に牧師先生がそのことを指摘されていました。なんか思い出しモヤモヤをしていた時期だったということもあり、神様が私のモヤモヤを知ってくださって、牧師先生を通してその部分を指摘してくださった!と心が楽になりました。

東京主信仰教会を含む、キリスト教福音宣教会では、何か問題が起こったときでも、幼い人の訴えがあったときでも、神様がそれをすべてご存じの上で御言葉を通して、必要ならば叱り、諭し導いてくださいます。
その御言葉を聞いて、各自自分の次元をあげるためにとみんなが努力しています。 だから、そんな御言葉がある限り、教会に通い続けていきたいです。

「教会だから、いつも天国」なのではなくて、「完璧な御言葉を聞いている教会のメンバーが、その完璧な神様の御言葉を聞いておこなって頑張って成長するから天国が作られる」のです。
そう、天国はそこにあるあそこにあるではなく、私たちの中にあるものだと、2000年前のイエス様もおっしゃっています。
自分のいる場所を、天国に作っていかないとね!


おおかみのような気性の荒い人も、羊のような従順な人も、蛇のように狡猾な人も

類は友を呼ぶではないけれど、同じような人ばかりで集まって生きていくよりも、いろんな個性、特徴を持つ人と和睦をなしながら生きていきたいです。
聖書にはこんな聖句があります。

おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。

(イザヤ書11:6-9)

本当の動物ならあり得ない状況ですが、『そのような個性を持つ人たち』が平和をなしていくならば、本当に素敵な世界だと思いませんか?
教会に通っていなければ、こんな魅力的な人とは出会えなかっただろう、という人たちが多いですし、その人たちと仲良くなって何かをなせたときには、これが神様の力なんだなと感じます。それを実感する回数が多ければ多いほど、「やっぱり神様ってすごい!御言葉ってすごい!」と神様に感謝をささげてしまうのです。
今月の説教の中で、東京主信仰教会の朱那牧師が「イザヤ書の聖句のように、一見まったく『合わない』人たちが、『主といるから』大きな御働きが起こり、自分の苦手な人たちで無くなっていきます。『合わない』人たちが、自分を作り、削り、磨く道具になります。」と話されていて、本当にその通りだなと感じました。だから幼いときにはぶつかり合ったりもするけれども、そのもがいていく中で自分をもっと作ってこそ、どんな人とでも自分と『合う』人になるんだな、と。
早く磨いて簡単なことでは傷つかない自分になりたいし、誰に対しても傷つけることがない柔らかい人に自分を作っていきたいです。


忍耐とは。

はじめ十数名だったのが、わずか数年で100名を超える人たちが集まる教会を牧会していた牧師さんが、その当時教会の社会人向けにこんなメッセージを残していました。
「私が皆さんを見て思うのは、皆さんはあることには非常に忍耐強く、あることにはほとんど忍耐できないということです。」
どういうことでしょうか?
「たとえば、悩みがあったけれどその事を言えずに我慢した、とか、スッキリしなかったけどそのままでいた、納得できないのにやり続けた、などですね。こういうことは皆さん、私が感心するほど忍耐強いです。」つまり、思っているけど表に出さない、という日本人にありがちな類です。そして、逆にどういうことには忍耐できないかというと、
「たとえば、人前で怒られた、自分の専門分野に口出しされた、気に障ることを言われた、肉(体力的に)が辛い、などです。」
つまり、自分自身に関することに直接触れられることをあげてらっしゃいました。
しかし、その牧師さんはこう続けてらっしゃいました。
「2000年前のイエス様が、自分の悪口を言われたからといって憤ったりしましたか?しかし、神様の歴史を妨げることや神様に対して無礼なことに関しては激しく怒りました。」
と、聖なる聖殿で商売をしている人に対してイエス様がされたことを挙げてました。 私たちが何に対して忍耐すべきなのか、考えなければいけません。
勝手に決めつけられたり、人格を否定されるようなことを言われたり、誤解されたりすることに傷ついてしまう必要はなくて、神様にどう思われるのか、自分に願われる神様の御心をどのようになしていくのか、そして自分の願いを神様の御心の中でなすためにどうしていくか、これに重点を置いて生きていきたいです。


理想的な自分になるために

ここまでいろいろ書きましたが、私は教会へ御言葉を聞きに行きます。御言葉、つまり神様の言葉、つまり私に必要な御言葉であって、愛する神様が私にたくさんの愛を注いでくださる言葉を聞きに行きます。
どんなにつらいことがあっても、神様が愛してくださって、たくさんの祝福をくださっている、だから教会に通っています。
あとは自分がもっと磨かれて、「神なおこ」にならなければ! みなさん、神なおこの登場に、長~~~ぃ目で乞うご期待!!


この記事のURLとタイトルをコピーする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です