幻想的な信仰、とは?

こんにちは
東京主信仰教会のなおこです
あまり暑くないまま今年の夏が終わり、今日から冬服モードに切り替えました。早く衣替えしなきゃ、着ていくものが、ない。

シュウキョウ

日本に住んでいると、宗教というのが特別な線で区切られた特別な、幻想的な、異界的なそんな雰囲気が醸し出されていると感じるのは、私だけでしょうか。もちろん初詣とか、節分の行事とかいろんな節句、最近だとイースターやハロウィン、クリスマスなど日本の年間スケジュールに組み込まれてきた感じがするんですけれども、それでも日本では宗教というものに「線」が引っ張られているというか、形式的というか見た目だけという感じがしてしまうのです。相変わらず表現がヘタクソでごめんなさい。
(以前も日本の宗教についてなおこが書いた内容はこちら
日本だけではなく、世界にはいろんな宗教に対しての考え方がありますし、同じ神様を信じていたとしても、同じ聖書を読んでいたとしても、解釈が違うなんてことはたくさんあります。
今日はある主日の御言葉を聞いていたときに感じたことをブログに書いていこうと思います。

天地開闢

御言葉を聞いていく中で、たまに普段の生活では出会わないような単語を聞くことが、たまに、あります。先日の御言葉の中で、「天地開闢」なんて言葉が出てきまして、教会に通っていなかったらこんな言葉を知らないままだったんだろうなとふと感じたなおこです。
ちなみに全知全能の神様は文学の神様でもあり、そんな神様が著書である聖書は文学的な表現が多用されており、比喩の表現も多様です。文学的に美しく、かつ的確にとらえた表現。たまにこれは文字通りなのか?それとも比喩で表現されているのか?と背景がわからないと判断がつかないときもありますが、そういうときには牧師先生がいつも教えてくださいます。

天地開闢とは
( 天と地は、もとは一つで混沌としていたがやがて二つに分かれたという古代中国の思想から) 世界の初め。天地のひらけ始め。byGOOGLE

さあ、どんな文脈で出てきた単語なのか、見てみますね。

みなさん、私たちはいつも神様の歴史、主に従って来る中で知っておくべきことがあります。神様の歴史が始まっても、天地開闢(かいびゃく)は起こりません。主の御言葉を聞いて自分の心と行いが覆されることが天地開闢です。人々は、主がこの地に来られ、御言葉を伝えて歴史が起こると、天地開闢が起こることを分かっています。

20210912主日礼拝より

この時点でいきなり「天地開闢」なんて単語が出てくるものだから、壮大すぎてこの時点では御言葉に頭が追いついていかなかったのですが、そのあとに聖書のある比喩表現が出てきました。
幼いころから教会に通うという習慣がない私にはそのような頭はなかったのですが、聖書に「日と月と星が落ちて、地球が燃えて、肉体が引き上げられる」という表現があるのはご存じですか?教会の壁面の絵画にありそうな幻想的で素敵な感じがしますが、実際太陽と月と星がいきなり落っこちて(どこに??)、地球が燃えたら、肉体が引きあがる前に自分が燃えちゃう…っていうかこれってどういう状況??って実際にイメージしようとすると…ぶっちゃけイメージできません。
でも、もともとキリスト教を信じている人のなかには、そのように信じていて、そのように信じないといけないんだと思っている人もいるんだと、クリスチャンの方から聞いたことがあります。本当かしら。

地球が燃え上がるけれども、その時に巻かれると言っていました。私、どういうふうに巻かれるのか見たかったのです。「えっ、じゃあ、その地球が巻かれる時に私は飛んで行くのだろうか。私はどんなふうに飛んで行くのだろうか」と。こう、巻かれるそうです。それで、1か所では火が燃えているそうです。「日、月、星がどこに落ちるのだろう」というのも気になったし。でも、これについてただ信じなければなりません。「なぜ空中にどうやって飛んで行くのですか。日、月、星がどこに落ちるのですか」という質問をした瞬間、「それを聞くのは知恵ではない」と言われます。だから、信じてついて行かないといけませんでした。

20210912主日礼拝より

わからないままただ信じる、もちろんそういうことも絶対ないわけじゃないけれども、それがずっと続くって苦しいですよね。しかるべき人に質問しているのに答えてもらえず、「ただ信じなさい」といわれていたクリスチャンにとって、聖書の意味を分かるようにさせてくださった牧師先生は、それこそ救ってくれた人、ですよね。
聖書は歴史を記録した書物であると同時に、神様的な文学表現をもって書かれた書物です。文字通りの出来事が記されたものもあれば、より深く理解できるように、比喩を使って表現されているところもあります。それがわからないときには聖書はちんぷんかんぷんな本なんですけれども、たくさん聖書を読んで理解している人に解釈してもらいながら読むと、奥の深い絶妙な表現で神様の人間に対する、つまり神様の自分に対する愛を感じる本となります。
聖書が文字通りの表現だけではないということを学んだからこそ、イザヤ書11章が本当に希望的な世界なんだということを知ることができました。

ししが、幼子が毒まむしの穴に手を突っ込んだら噛まれます。神様の歴史が来たからと言って、子どもたち、まむしに手を出してはいけません。ししの穴に入ってはいけません。神様の歴史が始まりました。(中略)
本当の理想世界は、こういうことが理想世界なのではありません。そのような人たち、多様な人たちが神様の御言葉によって、御心によって、考えは違っても御心は一つだから、自分の矛盾を直し、神様の御言葉とその御心によって一つになって、考えも変わり、行ないも変わり、霊魂も変わって、この地を神様と主と共にする世界に造ることが理想世界です。これが天地開闢です。

20210912主日礼拝より

いろんな性格の人、いろんな考えがある人の中で、互いに尊重しあい、互いの個性を認めながら、神様の愛で互いに助け合いながら…そんな天国を、この地上で自分の周りで作れたら、本当にいいよーーーー!
ただ、それを作るためには、個人が神様の考えで自分を作って、相手を受け入れる寛容さを持ちながら、自分が愛で満たされる必要があるから、本当に自分を作らなきゃですよね。

幻想的な信仰は、危険

神様は全知全能だから、なにか魔法のような感じで、瞬時に、パッと理想的なものを出してくれるような、そんな感覚って持っていませんか?人間でも、超人的にすごい人ってたまにいますけれども、私から見たら瞬時に、パッとなしとげちゃって、魔法を使ったかのような感覚になるんですけれども、それはその人がそれまでに経験したことや学んできたものや構築してきた人脈があってこそ、その土台があってこそなされている「魔法」なんですよね。

文字通りの幻想的な信仰は、結局限界を迎えるようになります。このようなことは絶対に起こらないからです。

急に、完全に違う人になれましたか。なれないでしょう。すぐにはできません。今日の御言葉を聞いて、「今日の御言葉、最高だ!今日の御言葉、すごい!私、完全に今日の御言葉を聞いて生き返りました。私が今日の御言葉を聞いたところ、自分が死んでいたということを悟りました」というのを、1週間後にまた言っています。何でそんなに何度も心が変わるの?心が死んで、生きて、死んで、生きて。この御言葉を聞いている人のことを話しています。よくできるときと、悪いときの波が本当に激しいです。「ものすごい!」と言うけれども、それが長続きしません。恵み深く御言葉を聞いたかと思えば、立ち上がって教会から出て行く時は、「あー」といって出て行きます。

20210912主日礼拝より

どき!…アイタタタタタ。
御言葉を聞いたときには、もう何でもできそうな気持ちなのに、御言葉を聞き終わった後にその感動が即薄れてしまうこと、あります。神様の御言葉を聞いているのに、普段の生活でなんでこうなんだろう?と思うこと、あります。神様の御言葉を聞いて、その御言葉をなそうとしているのに、どうして悪く言う人がいるんだろう?と思うこと、あります。『祈ったらできる』というけれども、祈っても全然変わんないよぉとふと思うこと、あります。まわりが神様の御言葉を実践してキラキラ輝いている様子を見て「あれ?」と自分の変わらなさを見て焦ること、あります。主に会ったら変わる!と幻想的に期待していたのに、もちろんそのあったときには天国のような幸福感を味わったくせにまた同じな自分に戻ったと感じること、あります。
それでエネルギーが奪われてしまうのです。

みなさん、力が奪われます。何かが力を奪うのか。状況が力を奪うのか。状況は同じ、(…)配偶者は同じ。子供たち、落胆しないでください。親のみなさん、子供たちが変わらないですか?落胆しないでください。(…)月給が上がりましたか、給料があがりましたか。(笑いながら)
(中略)
中高生たち、(…)成績が上がりましたか。模擬試験、よくできましたか。平素の実力通り。平素の実力通り。ほとんどもう同じです。(…)すべてが同じ。お母さんの料理の実力、急によくはなりません。そうですよね。
周りは同じです。So what?だから、何?(…)私はそのまま。給料同じ。全部そのまま。

20210912主日礼拝より

そしておっしゃいました。

「瞬く間に変わる」と言いました(コリント人への第一の手紙15章50節から51節)。ラッパが吹いた瞬間、瞬く間に変わる。これも幻想的な信仰です。「瞬く間に」というのは、「だんだんと」ということです。神様の時。瞬く間にやってきます。だんだんと、季節のように。
みなさん、最近の天気を考えてみてください。たちまちの間に秋が来ましたね。昼はまだ暑いですけれども、風が吹く時、木陰に入ったら涼しいですし、朝夕は涼しくて、散歩するにはよいです。このように、夏が過ぎてたちまちのうちに秋が来るように、神様の時がこのようにたちまちのうちにやってきました。

20210912主日礼拝より

そうです。「またたくまに」とか、「パッ」となされるような幻想的なものは、そうみえるだけなのであって、実際は「だんだんと」なされていることなのです。飛行機もいきなりグンッと、パンッと上がる飛行機はありませんよね。エンジンをかけて、だんだんと歩いているかのように行くあいだに急に速度を上げて飛び、だんだんと高度を上げて飛んで行くようになるのです。
御言葉を聞いて、一進一退しながらも、だんだんと、たまには迷うときもありながら、しかし着実に、自分を作っていくなおこになりたいです。幻想的な感覚はときに必要なときもありますが、それより地道に実直に生きていきましょう。もちろん、神様の御言葉とともにね。

スリルあり、大胆で、雄大

ある讃美で、主が行かれる道を「スリルあり、大胆で、雄大」だと表現する歌があります。その表現に最初驚いたのですが、その讃美を歌えば歌うほど、ぴったりな表現だと感じます。主が行かれる道、つまり私たちも続いていこうとしている道は、ときにスリルがあって、計画立てて気をつけながら行くけれどもときに大胆で、なによりも神様が働かれる歴史だからこそ雄大さを感じるしかない道です。

みなさんは、この一週間どのように生きて来られましたか?ジェットコースターのようにスピード感がありましたか?スピード感というよりは、バイキングのような何度も何度もなんともいえない終わっても心臓が落ち着かない感覚を味わいましたか?それとも無難に、無難なあひるのボートのようでしたか?
スリルを味わいながらも、「落ちなければいいんだ~」という気楽なときもありつつ、自分で操縦しながら障害物は避けていくような、楽しくすてきな毎日を送ってください。

寒くなり始めますが、皆さん体調に気をつけて☆

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です