祈りがきかれないとき

こんにちは。東京主信仰教会のなおこです。
「とうきょうしゅ」と打ち込むだけで、最近は予測検索で「東京主信仰教会」が出てくるようになって、個人的にとてもうれしいです。
ついでに私のブログの読者が増えてくれることを願います。

祈りがきかれないなんてこと、あるの?

厳密にいえば、神様に捧げるお祈りで、神様がきいてくださらないことはないと思われます。
ときに「主の御名」で祈らなかったときには切手の貼っていない郵便のように相手(神様)に届かないときもありますが、切手の貼っていない郵便が相手のところにうっかり届いて、相手が郵送代を払ってくれるときのように神様が受け取ってくださるパターンもあります。
有能な郵便システム(天使たち)のおかげですね。
祈りがきかれないこと、つまり神様に切実に願い求めているにもかかわらず、その願いがいっこうに叶わないことがあります。
祈れば必ず神様がきいてくださるはずなのにおかしい!神様なんていないんじゃ…(ry
そんなことを考える前に、考えてみませんか?
祈りがきかれないとき、どういうときでしょうか?

牧師先生の祈りがきかれなかった!?

聖書の中で、2000年前に弟子たちがある信者から病気の人から病を追い払ってほしいとリクエストを受けたのに、全然追い払えなかったことがありました。イエス様の弟子たちですから、それなりに信仰もあって、それなりに沢山の祈りをしていたはずなんですけれども、全然追い払えなくて、「お弟子さんたちのところに連れて行ったのに直してもらえなかったんですぅ」とイエス様のところにその病気の人が行ったら、イエス様が少しがっかりされた後に、その病気の人のために祈ったらその病気が治ったということがあったんです。弟子たちとしては、かなりかっこ悪いところをイエス様に知られてしまったって感じでしょうか。そのあとになんで自分では追い払えなかったのかと聞いたときにイエス様がこうおっしゃいました。

するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。

マタイによる福音書17章20節

要するにお前たちの信仰が足りなかったからじゃないか?と怒られた感じでしょうか。言われた弟子たちとしてはショックでしょうけど、事実なので認めなきゃですよね。
このような聖書の流れがあって、牧師先生も若かりし頃、その聖句を信じてあるお祈りをしたことがありました。

先生は田舎の山奥で育ちました。
家の前にある山にたいしていつもうっとおしく感じていました。

「『前山がなくなるように』と神様に祈った」と言いましたよね。視界が遮られて窮屈だから。「からし種1粒ほどの信仰があっても山が移る」と言ったから、「私は地球の塊ぐらいの信仰がある。私が望んでいる。」そう思って、「前山がなくなるように」と必死で祈りましたが、ある日、長い間座って祈っていたら、本当に山が動く気がしました。なくなる気がしました。「こんないい御言葉があるんだ」と。教会、神様を絶対に信じて、伝道もして通っていました。それで、「前山がなくなるように」と必死で祈ったので、心理的に山が動くような気がしました。山がゆらゆら揺れている気がしました。怖くて、トゥングレ山(近くの山)に逃げました。(中略)それで、見ると、トゥングレ山に行って祈っていても、前山がなくなりませんでした。なぜ、なくならなかったのでしょうか?

20210608朝の御言葉より

牧師先生は幼いころから教会にも通って、御言葉も熱心に学んで、教会でもたくさんの役割を積極的にされていて、神様のことを知らない人に対しても神様のことをわかりやすく話してあげて…という感じで育ってらっしゃいました。だから「自分の信仰はさすがにからしだねくらいはあるだろう!」と自信満々に、邪魔でしょうがない山をどっかに移してもらえるんじゃないかと願ったのではないでしょうか。
いくら祈っても、そのお祈りがきかれることはありませんでした。
言っときますが、先生の祈りが足りなくて祈りがきかれなかったわけじゃありません。
先生が「祈った」というのは、私にとって「めちゃくちゃ切実に祈りまくって祈りまくった」状態よりもさらに祈った状態です。その先生が「必死に祈った」と表現されるなんで、どのくらいの分量、熱量で祈られたことでしょうか。そんな祈りにもかかわらず聞かれなかったのです。
正直に言って、人間にとって「山を移す」なんて簡単なことではありませんが、神様にとって「山を移す」というのはやろうと思えば地震でも起こしたり、国の開発を誘導して山をなくしたりすることもできちゃうんです。なのに、先生のその切実なお祈りがきかれなかったのです。

どういうことでしょうか。

神様の御心があるか否か

からし種のような信仰は、神様の許諾、主の許諾、聖霊様の絶対的な許諾がなければなりません。許諾がない。「私がうっとうしいから」と思って、「なくなるように」と祈りましたが、神様が許諾なさいませんでした。自分の思いどおりではなく、絶対に神様を中心にした信仰、神様が中心にした出来事。神様が野心作をこのように造ろうとしておっしゃったのに、これ全部、大きな作品は前山に全部あるでしょう。それを「なくしたい」と祈ったわけだから、神様が許諾せず、イエス様も許諾せず、聖霊も許諾せず、御子も許諾しないことを一人で窮屈だと思って祈ったわけだから、動かないでしょう。

20210608朝の御言葉より

そうなんです。その祈りが神様の御心があるか否か、なんです。
もし幼い牧師先生が祈った通り、その時お祈りどおりにその山が無くなっていたのなら、いま、月明洞の一番の傑作品、野心作の岩の造形を見ることはできなかったでしょう。あの岩の造形がなかったならば、核心のない月明洞になって、見るところが半減したでしょう。
神様が牧師先生をこの世に生まれるようにした時点で、その山を今のように作ろうと計画されていたからこそ、その山は移されてはいけなかったんです。たとえそのことをわかっていない幼い牧師先生がどんなに切実に求めようとも。
人間的に考えてしまうと、「嫌われているから願いを聞いてくださらないんじゃないか」と勝手に落ち込んでしまうこともありますが、神様から愛されに愛されている牧師先生が祈ったとしても、御心でないことはなされないんです。

全知全能の神様の考えと、いち人間の私の考え

弟子たちも、自らやろうとしたからできませんでした。だから、悪霊が出ませんでした。主の名前で主を分かって、悟って一体となった生を生きなければなりません。今考えると、神様が許諾せずに、自分の好き勝手に、「窮屈だから」と言って、「山が動くように」と祈りました。聖書の御言葉を正しく理解もせずに、根本的な理解もせずに祈ったから、ならなかったのです。「からし種のような信仰1粒があれば山を移す」と言いましたが、私もやってみました。もう、窮屈でやってみました。前山だけでなく、みなさんの前にある困難な出来事がある時に、うまくいかなかったでしょう。でも、許諾があったら、うまくいったでしょう。

20210608朝の御言葉より

うまくいかないとき、祈りが届いていないなと感じるとき、もしかしたらそれは神様の御心じゃないから神様が叶えることができないのかもしれません。
私を愛している神様が、私が幸せになることを邪魔するわけないじゃないですか。
神様の御心、つまり神様の考えていらっしゃる計画の中には、私が幸せになることは完全に組み込まれていて、しかも神様の計画の中にある道の方が、私の考えて願っている道よりも私が幸せになるようになっているなら、むしろそのとき私が願っているとおりにしちゃだめじゃないですか。
しつこく言いますが、神様は全知全能なんです。だからといって願い求めることをやめて「あとはよろしく~」と放り投げるのもよろしくないですが、願って、願って、あとは「委ねます」と従順さを見せるのが、神様に対してはいいんじゃないかなと思っています。

「祈りなさい」といわれているときはお祈りを聞いてくださるチャンスなんです

「祈りなさい」関係のブログ、多くない?っていうか、内容も似たり寄ったりじゃない?と思われる方も多いと思います。
「祈り」は信仰を持つうえでとても必須なものであり、っていうか話題にしないとブログが進まないので、これからも何度も話題に出てくる内容となると思われます。
そして似たり寄ったりになるのは、単に私の文章力の問題なので、もう少しお付き合いください。

話がそれました。
今、神様に祈っていることがなかなかかなわなくて、苦しい思いをしている人、神様なんて本当はいないんじゃないかという考えがちらりとでも浮かぶ人、神様は私なんて好きじゃないんじゃないかと勝手に落ち込む人、それは違います。
神様は愛しているからこそ、一番いい道へと導こうとされているだけです。
どうか、最後まで祈ってみてください。
どんなにすばらしい世界を神様が用意してくださっているのか、それを見ることができることを心から祈っています。

今、祈りなさいとおっしゃっているこのときがチャンスです。
私もずっと祈り願っていることがあります。
叶いそうだったのに途中でうまくいかなくなって、周りからもいろいろ言われて苦しい思いをしたときもありました。
でも、すんなり叶わなかったからこそ得られた祝福もあって、途中途中でとても希望的なものを神様が見せてくださっているからこそ、叶うようにと祈り続けることができています。
そして、私が今思い描いているその願いよりも、はるかにすばらしいものを与えてくださると信じているので、その時まで祈ろうと思います。
どうかタイムリミットまでには叶いますように!

最後まで祈るYO!

祈りがきかれないとき” に対して2件のコメントがあります。

  1. オオクボカズアキ より:

    主の聖名を賛美します。

    私は今コロナにかかり薬を飲んで治療していますのでコロナから解放され完全に癒されます様お祈りください。

    アーメン

  2. オオクボカズアキ より:

    祈りのリクエスト

    主の聖名を賛美します。
    私は今狭心症の為少しでも無理をすると胸が苦しく痛みの為に苦しんでいますので、完全に癒され狭心症から解放されます様お祈りください。
    アーメン

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です