心と思いと命を尽くして

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こんにちは
東京主信仰教会のなおこです。
3年位前からポテトチップスが好きになりました。そのため、小さな吹き出物が…。
マスクの下で恐ろしいことになっております。

有名な聖句

タイトルにもあるとおり、「心と思いと命を尽くして」という表現は聖書の中で出てきます。

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

申命記6章4-5節

ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

マルコによる福音書第12章28-30節

このフレーズが説教の中でもよく出てくるんですけれども、「真心をこめて」という意味に解釈して内容を受け入れていました。なんとなくで理解していたけれども、説明しなさいと言われたらうまく説明できるようなできないような、できない感じでした。

一粒の種から

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

ヨハネによる福音書12章24節

ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。

マタイによる福音書13章8節

聖書に書かれている通り、一粒の種が、犠牲となったときに、神様の摂理のとおりに爆発的に増えていきます。30歳の青年イエスキリスト一人から始まって、その伝える神様の御言葉によって人々に影響を与えていって、時の主権者たちがいくら悪評をしても、弾圧をしても、その広がりはすさまじいもので、十字架につけられて肉体が死んでからもなおその教えが広がり続けたのは誰も否定できない事実だと思います。100倍、60倍、30倍どころか、今もこの地球上で何十億の人たちがイエスキリストの伝えた神様を信じています。
でも本当に、その一粒の犠牲がなかったならばその生はなかったし、どんな豊かな実りも一粒の種から始まるんだなということを話したいと思います。

2009年頃でしょうか。キリスト教福音宣教会の中で聖霊運動が始まりました。
ある平日の特定の曜日の夜に行われる「聖霊集会」と名付けられた集まりが始まりました。当時私が所属していた教会ではその曜日にバレーボールで体を動かし、神様に栄光を帰そう!という習慣があったため、その集まりに参加する人は本当に少なかったです。しかし、参加した人が、御言葉を聞いて、賛美をして、祈ったときに大きな聖霊の火がついて、「これはみんなが聞かないといけない御言葉だ!」と感じ、牧会者に伝えたところ、バレーボールをほかの曜日に移して、教会みんなで聖霊集会に参加しよう!という流れになりました。

ある中学1年生の子が中1の子、13歳の子がこう言いました、教師に。「私は聖霊集会に参加できなかったことが、一生の恨(筆者注:ハン→日本語に無理やり訳すならば、後悔?ぬぐい切れない心残り?)です」と。中1の子がそう言ったそうです。一生の恨だそうです。13年の人生の中で、聖霊集会に参加できなかったことが一生の恨だそうです。

20210905 中高生にむけて、チョウンさんより

13歳の中学生がチョウンさんにそう告白するような聖霊集会とは、どのように始まったでしょうか。

私が初めて聖霊集会を始めた時、誰もこれを期待することをしませんでした。どういうふうに最初始めたか?ある教会は一人も来ませんでした。牧会者一人で生放送を捧げました。本当に、最初は参加率が10%ぐらい。これがものすごい御働きを起こすということは誰も想像もできませんでした。
ですが、結論は、大成功でした。これに参加しないで、御言葉を聞かないで聖霊を受けなければ存在できないくらいの、大成功を成し(...)ました。

20210822中高生にむけて、チョウンさんより

聖霊集会は本当に、小さく、小さく始まったんです。8/22に伝えられた説教を聞きながら、自分もそう思っていたし、自分の教会もこの聖霊集会がなかったならばこんなにも熱く祈ることはできなかったし、火を受けることができなかったなということを思い出しました。
そう、この聖霊集会によって、2000年前にイエス様の弟子たちが聖霊の火を受けたように、私たちも聖霊の火を受けるとはどういうことなのかということを知り、受けました。

心と思いと命を尽くして

ある主日にチョウンさんが中高生たちに「心と思いと命を尽くして三位を愛し、主を愛し、神様が愛する兄弟たちを愛することが神霊で霊的なことだ」ということについて話をしていました。
「心と思いと命を尽くして」、フレーズとして聖書に記載されている内容ですが、内容分解してみると、心を尽くして、思いを尽くして、命まで尽くしちゃうんですよ?10代の子たちにこの言葉って、ちょっと難しくないですか?「命を尽くしてあなたが好き」とか10代の子に言われても、負担じゃないですか?重くないですか?逆にわかっているのかしらんと思っちゃいませんか?
心と思いと命を尽くして行うということについて、チョウンさんが聖霊集会を始められたときのことを話し始められました。

私、どのようにみなさんを導いていましたか?どのように伝えていましたか?どのようにやっていましたか?本当に心を尽くして思いを尽くして命を尽くしているようではありませんでしたか?心と思いと命を尽くしてやってきました。だから、できない理由を考えない。できないとしても、やったのです。
できないけれども、最後までやる。だから、心と思いと命を尽くしています。

20210822中高生にむけて、チョウンさんより

心と思いと命を尽くして行うということがどういうことなのか、わかりやすく解説してくださいました。
何かを行うにあたって、できない状況や理由がたくさんあります。弱冠20代のかわいらしい女性が、まさか聖霊の力によってあれほど力強い御言葉を伝え続けていくと誰が思ったでしょう。周りに「あの人にできるんだろうか?」と思われながらも、「私なんかにできるだろうか」という自分が感じている足りなさも、そのほかのできない理由はたくさんあったにもかかわらず、あれほどの聖霊の火をみんなの心につけていくと誰が想像したでしょう。

おこなった人が勝利する

聖霊集会のときだけでなく、今も、チョウンさんは信仰熱くいろんなことをなさっています。いろんなことができる方ではあるけれども、チョウンさんだからといって何でもできるわけではないですよね。人間ですから。
それでも、とにかく約束したことに対しては、「やらなきゃ」と思って『心と思いと命を尽くして』なさったチョウンさん。命を尽くすというのは、できないとしても、そうだとしても「やった」ということ。
つまりは、心と思いと命を尽くすということは、状況ができない状況だけれども、やるべき理由一つを考えて、やること。簡単に言えば、結局は、行なった人。行なった人、やった人。
誰もついて来てくれなくても、大変でも、状況が悪くても、やらなくていい理由がたくさんあっても、傷ついても、そうだとしてもやるその心。これが『心と思いと命を尽くす』ということ。

心と思いと命を尽くして主を愛し、心と思いと命を尽くして御心をなしていくこと。
どんな障害があったとしてもなそうとする、そんな愛らしい人に、神様が働きかけないなんてことがあるでしょうか。
できない環境の中でも、やる。そんなかっこいい人になる!と言い切りたいところですが、とにかく近づく姿勢だけでも神様に見せておかなきゃです。

「なおこ」という一つの種から、さあ、何が実るでしょうか。
頑張ります。

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