御言葉が頭にも入ってこなくて、心にも響いてこないとき、ちょっと焦るよね~

こんにちは
東京主信仰教会のなおこです
月末に出張が入ってしまいました。せっかく西のほうまで行くから、コロナでなかなか会えなかった人にコンタクトとって、少し会う約束をしました。楽しみぃ~

御言葉が入ってこない

私は神様のことが大好きです。だから、普通愛する人の言葉って、何よりも甘く、いつまでも聞いていたい、そんなはずですよね。でも(´·_·`)、たまにあるんです。愛する人の言葉を聞いていたはずなのに、聞き終わったときに何にも残っていないとき。たまにあるんです。愛する人の言葉を聞いているのに、何にも感じないこと。たまにあるんです。愛する人の言葉を聞いているくせに、そろそろ終わらないかな(長いな)、と思ってしまうこと。
この不届きものぉぉっっっ!!(バシッッ(←自分で自分をたたく音))
先月後半、まさにそんな感じでした。御言葉を聞いていてもなんか退屈に感じたんです。聞いているときもあんまり自分の中に入ってくる言葉がなくって、逆に不安になりました。
やることを片づけていなかったとかで前日に寝ていなかったのが影響した日もあったと思います。もう眠くって眠くって、御言葉聞いていても眠くって。でも、眠いとかさして理由もないのにそういう状態になるのは、ずばり「信仰が悪いから(信仰心が十分でないから)」なんでしょうか。
ちょっと落ち込むからこの話はいったん切りましょう。

御言葉の流れ

この話の流れのときに思い出すエピソードがあります。私のいっこ上の教会メンバーが学生のときに話していた話です。当時、朝、毎日のように先生が御言葉を伝えてくださっていたんですが、尋常じゃない長さなんです。3時間4時間は当たり前のように話されていたんです。当然社会人たちは最後まで聞くことができず、途中で切り上げて、出社していたそうなんですが。その教会メンバーが、朝から毎日あまりの長さの御言葉を聞いているのに、理解が追いつかなくて、当時の教会牧会者に相談したそうです。そうしたら、「理解しようとするんじゃなくて、全知全能の神様の御言葉だから、その流れに身を任せるようにして聞くんだ」ということをおっしゃったそうなんです。
それを聞いて、そっか、理解することにこだわって御言葉を聞くんじゃなくて、もちろん理解することも必要だけれども、それよりも愛する人の言葉に身を任せてその流れを楽しんでいくことが重要なんだなと思いました。
ちなみに、これは15年くらい前の話なので、参考にする部分と参考にならない部分と分けて読んでくださいね。その教会メンバーは、いまや大手電機メーカーに勤務する3児の父です。新居一軒家にコロナ開けたらもう一度遊びに行きたいです。

とはいえ、愛する人との対話が成り立たないのは問題です

このままじゃまずいなぁと思って、お祈りのなかでも「最近御言葉がちゃんと聞けません」「御言葉中に御言葉後のことについて考えちゃいます」と正直に話したりしていました。すると、ちゃんと御言葉が聞けるような状況へと神様が導いてくださいました。
やっと正常に戻った感じでしょうか。御言葉を書きとめていたノートを見るとその差歴然です。

という話を、学生の海ちゃんに話したところ、「なおこさんでもそんなこと、あるんですねーー!なんか希望的です!」といわれました。こんなかっこ悪い話でそう言われるなんて、何が人を喜ばせるかわかんないなと思いました。そうだよー、神様大好き!とか言って20年近く経っている私がそんなことあるんだから、神様を愛し始めて数年の海ちゃんがそういうことに陥っても、自分を責める必要ないんだよーーー。みたいな?

御言葉

御言葉は愛する方の言葉でもあり、全知全能なる方の言葉であり、自分をよくするための言葉であり、将来を希望的に見せてくださる言葉であるわけなので、それが自分の中に入らないというのはもったいないし、深刻です。
御言葉が自分の中に入ってこないときや、お祈りがなかなかできないループに陥っているときには、早めに自分の教会牧会者に相談して、一緒にお祈りしてもらうことをお勧めします。

それでは今日も、素敵な神様とのひとときをお楽しみください。

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